日本酒の豆知識
日本酒は、水のかたちをしている
― 軟水と硬水、その味わいの源を探る ―

2026年1月5日
『古事記』や『日本書紀』において、日本は「豊葦原瑞穂の国(とよあしはらみずほのくに)」と呼ばれてきました。
葦(あし)と稲は、いずれも湿潤環境を好む植物であり、ともに水辺に根を下ろす植生です。葦は自然の湖や沼、湿地などに群落を形成し、水辺の生態系を作り出す植物。一方、稲は水田という人工的な湿地で栽培される一年草。どちらも“豊かな水を保持する土地”でなければ育たない植物であり、日本列島に広がる湿潤な地形・気候条件のもとで、古代より共に息づいてきた存在だと言えます。葦の原が豊かに茂り、瑞々しい稲穂が波打つ国。清冽な水で育つ稲から、やがて日本酒が生まれます。日本酒の80%が水だという事実はよく語られますが、この意味でも、日本酒は、水と生態系をつなぐ存在だと言っても過言ではないのです。
では、日本の水にはどのような特徴があるのでしょうか?
そしてその水が、日本酒の味わいにどう影響しているのでしょうか?
「軟水の国」日本
日本の水道水や地下水のほとんどは、「軟水」に分類されます。
水の硬度とは、カルシウムやマグネシウムなどのミネラル成分の含有量で決まり、日本国内では一般的にアメリカ硬度100 mg/l 未満が軟水、100 mg/l 以上が硬水とされています。実は国際規格であるW H O(世界保健機関)では硬度120 mg/l 以上が硬水なのですが、つまり日本ではその基準が少し下がるほどに軟水が多いのです。日本では、多くの河川が短く急峻な山から海へ流れるため、地中に長くとどまる時間が少なく、ミネラル分をあまり含まなくなるためだと言われています。
この軟水が、日本の食文化を育ててきました。
出汁の香りを引き出し、繊細な味わいを活かす京料理や和食の基盤も、この軟水あってこそ。
そして同じく、日本酒の発酵や香味にも、軟水の性質が深く関係しています。
水は発酵スピードを変える
酒造りにおける水の主な役割は、「仕込み水」として米と麹、酵母とを結びつけることです。
仕込み水が軟水であると、酵母の活動がゆるやかになり、発酵に時間がかかる傾向があります。
その結果、味わいはふくよかで丸みを帯びた酒になります。
香りも穏やかで、旨味と調和した柔らかな飲み口が生まれやすくなります。
一方、ミネラル分を多く含む硬水では、酵母の働きが活発になり、発酵が早く進みます。
そのため、シャープでクリアな味わい、キレのある酒に仕上がりやすいという傾向があります。
つまり、水の性質がそのまま酒の性格を決めると言ってもいいのです。
硬水が醸す革命:油長酒造「風の森」の衝撃
日本が「軟水の国」であることに異論はありませんが、実はその中にあって、極めて硬度の高い水で酒を醸す蔵が存在します。
奈良県御所市の油長酒造「風の森」はその代表格です。
油長酒造の仕込み水は金剛葛城山系の深層地下100mから汲み上げられており、なんと硬度250mg/l以上に及ぶこともあると言われています。これはヨーロッパのミネラルウォーターに匹敵するレベルの超硬水で、ここまで硬水な仕込み水は日本国内では非常に珍しいのです。
通常、硬水はミネラル分が多いために、酵母が暴れやすく管理が難しく、繊細な酒造りには向かないとされてきました。しかし、油長酒造はこの硬水の性質を「酵母の力を引き出す個性」として逆手に取り、独自の技術で制御。無濾過生原酒にこだわり、香り高く、シャープで立体感のある酒を次々と生み出しました。「風の森」が持つ、フレッシュでインパクトのある味わいは、仕込み水が硬水だからこそ可能になった酒質と言ってもいいかもしれません。
やわらかさの極致:島根「月山」の静謐な清らかさ
一方、究極の軟水で醸す酒として注目すべきなのが、島根県安来市の吉田酒造による銘柄「月山(がっさん)」です。吉田酒造の仕込み水は、中国山地に降った雪解け水が、花崗岩層をゆっくりとくぐり抜けて湧き出る超軟水。その硬度はドイツ硬度で0.3、アメリカ硬度だと驚きの5mg/l程度。
ここまで軟水だと、酵母に必要なミネラルが最低限しか供給されないため、発酵をゆっくり進ませる必要があります。その分、蔵人の繊細な温度管理と長い時間を必要とする、「難しい水」です。しかし、この水が「月山」にまるできめ細やかな旨味、絹のような口当たりと透明感をもたらします。まさに、その名の通り、静かに佇む月の光のような、控えめで内省的な美しさを感じさせる酒です。
「水が味を決める」ことの意味
ここまで見てきたように、日本酒の味わいは、原料米や酵母、造り手の技術だけでなく、その背後にある水の質によって大きく左右されます。
硬水は、酒に緊張感と輪郭を与え、香りの立ち上がりや後口のキレに寄与します。
一方で、軟水は、やさしく包み込むようなふくよかさや、旨味の余韻を醸し出します。
同じ米、同じ造りでも、水が違えば、まったく異なる表情の酒になるのです。
水は目に見えず、味にも直接的なインパクトは少ないように思えるかもしれません。しかし、その「見えなさ」の中に、土地の記憶と気候のリズム、人の営みが染み込んでいます。いわば、日本酒は、水の記憶を飲む飲み物と言ってもいいかもしれません。
「水から見る酒」は、「風土から知る私たちの故郷」でもある
水は、地形、気候、そして人の暮らし方を反映しています。
火山帯に囲まれた軟水の湧水地、雪解けが命を運ぶ川筋、潮の満ち引きに呼応する地下水──
それらは、単なるH₂Oではなく、日本という風土が気候や地質と共に積み重ねてきたものです。
だからこそ、水を知ることは、酒を知ること。
日本酒を知ることは、その背後にある土地の表情や、人の知恵と工夫を知ることにほかなりません。
「豊葦原瑞穂の国」とは、そうした水と稲と人が織りなす記憶を伝える言葉です。
そして日本酒とは、その記憶が、今なお生きたかたちで継がれている証です。
次に酒を口にするとき、ぜひその背後に流れている「水」の存在に耳を澄ませてみてください。
その一杯が、風土と文化をめぐる旅の入口になるかもしれません。そんな「水を巡る酒旅」は、最高に楽しい!と、旅を生きがいにする私は思います。