ワインの豆知識
『The Year of the Comet』

2025年12月29日
1992年、Peter Yates監督の映画『The Year of the Comet』が公開された。若きソムリエであり、ワイン鑑定士でもある主人公マーガレットは、ロンドンの試飲会において、1811年──いわゆる《彗星の年》の可能性を秘めた伝説的古酒の鑑定を任される。その計り知れない価値を巡り、彼女は米国人ワイン仲買人オリヴァーとともに、ワインを安全に運ぶ旅へと出ることになる。しかし噂を嗅ぎつけたコレクターや犯罪者たちに追われ、物語はロンドンからコート・ダジュール、さらにスコットランドへと展開していく。希少ワインを巡る追跡劇とロマンスが交錯する、知的なロードムービーである。
ワイン愛好家にとって特に興味深いのは、映画冒頭に描かれるロンドンの試飲会の場面である。その中でマーガレットは、1964年のシャトー・ラトゥールについて、次のように説明する。
“This is the 1964 Château Latour. Sixty-four is a Bordeaux vintage you have to be careful with — it was very uneven across the Médoc. But Latour handled the year exceptionally well: depth of colour, firm tannins, and far more longevity than most Left Bank wines of the vintage.”
──「こちらは1964年のシャトー・ラトゥールです。64年のボルドーは評価に慎重さを要するヴィンテージで、メドック全体では出来に大きなばらつきがありました。しかしラトゥールはこの年をきわめて見事にまとめ上げています。色調の深さ、引き締まったタンニン、そして同年の左岸ワインの大半をはるかに凌ぐ熟成力を備えています。」
1964年の春は穏やかで、開花は均一に進行した。
夏も乾燥して高温に恵まれ、日照量は十分で、光合成は順調に進んだ。ポイヤックのシャトー・ラトゥールやシャトー・ピション・ラランド、サン=ジュリアンのレオヴィル三家(ラス・カーズ、ポワフェレ、バルトン)、サン=テステフのシャトー・モンローズなど、多くの左岸名門シャトーは、9月末時点のブドウの状態を「非常に健全」と記録している。
しかし、メドックでは10月8日頃から約2週間にわたる豪雨に見舞われ、状況は一変する。右岸で主体となるメルローは、一般に9月下旬から10月初旬にかけて収穫可能となる品種であり、1964年もシュヴァル・ブラン、ペトリュス、トロタノワなど多くの右岸シャトーが、10月8日以前に収穫をほぼ完了していた。一方、左岸の主力であるカベルネ・ソーヴィニヨンは、通常10月上旬から中旬にかけて成熟・収穫期を迎える晩熟品種である。
1964年当時は、現在よりも生育期の平均気温が低く、フェノール成熟にはより長い時間を要した。加えて、「カベルネは可能な限り待つべきだ」という文化的・哲学的な醸造観が支配的であり、10月初旬に収穫を前倒しする判断は、当時の技術水準では現実的とは言い難かった。その結果、10月8日以前に収穫を終えていた左岸シャトーは、ポイヤックのシャトー・ラトゥールとサン=テステフの一部に限られた。
多くの左岸の格付けシャトーは、まさに収穫直前の段階で長雨に直面することとなる。当時は、今日のような高精度の気象予測、衛星画像、成熟度分析が存在せず、雨がいつまで続くのかを正確に見通すことは不可能であった。
このため1964年のボルドーでは、右岸が雨を回避して収穫を完了できたのに対し、左岸の多くは雨の影響下で収穫を余儀なくされるという、品種と収穫時期の差に起因する明確な構造的分岐が生じたのである。
現代のボルドーでは温暖化の影響によりブドウの成熟が早まり、かつては晩熟とされたカベルネ・ソーヴィニヨンでさえ、9月のうちに糖度・色調・タンニンが十分に整う年が増えている、という状況になっている。
さらに、気象予測技術と成熟度評価の進歩により、降雨リスクを回避した収穫判断が可能となり、1960年代と比較すると、収穫時期は概ね2〜3週間前倒しされている。
このように1964年の左岸は、春と夏がもたらした高い潜在的成熟力が、10月上旬の長雨によって最終段階で遮断されたヴィンテージである。
品種特性、土壌、気象条件、そして人間の判断が複雑に交差し、その因果関係が、この年の本質を雄弁に物語っている。


